トイレはクサい

トイレはクサい

トイレは、クサいからこそトイレなのであって、毎朝毎朝クサいクサいとストレスをためていてもしょうがないのです。

トイレというのはそういうものである、という割り切りが必要なのです。

なんでもかんでも、敏感に反応しないこと。どなたかが「鈍感力」という本を出されていました。

ただし、大事なのは、クサくとも常に清潔にしておく必要は、あるのです。

トイレというのは、不潔だからクサいというわけでもない。清潔にしておけばニオイが撲滅されるというわけでもない。そこ固有のニオイというのも、あるのです。

このハナシは暗喩のようなもので、いろんな局面に応用できるように思っています。
スポンサーサイト

瞼を押す

瞼を押す

埴谷雄高の対談集を読んでいて面白いなあと思ったことをメモしておきます。

「そういえば、そうだなあ」と思ったのですが、目をつぶって瞼(まぶた)を上から押すと、光が発生する、というハナシで。。

やってみると、面白いですね。「闇」のはずなのに、じわっと光のようなものが発生して幾何学模様が浮かび上がるといいますか。

「これが宇宙なのか?」なんてことを思ってしまいましたね。

ヒマつぶしによいです。

キレイになった、と喜んでいるようでは

キレイになった、と喜んでいるようでは

トイレや風呂、部屋、など、掃除をして、きれいになり、「あー、みちがえるほどキレイになった!」といっているうちは、ゼンゼンダメなのです。

ダメの理由のその1は、「キレイになった!」とアピールする必要はどこにもない、ということ。

自分のやった結果を自慢することはないのです。

もうひとつは、これが大事なのですが、掃除の都度ピカピカにしているようではダメなのです。

掃除してピカピカになるということは、その前はキタナかったということです。そもそもキタナくすること自体が問題。

キタナくなる前に毎日毎日毎日すこしずつ継続して掃除すること、そしてその行為が空気のようになってゆくことが大事なのです。

やらない言い訳

いろいろな方がいろいろなところで書いていることで、ホント腑に落ちるのですが。。
有益なる本を読んでも、そこに書いてあることを実践する人間はほぼ皆無である、と。

何もしない、のであればまだよいのですが。。

実践は確かに大切です。でも、本を読んで実践をできる人たちというのはおそらく「選民」です。凡人がやるべきことは、良書を読んで「ココロから納得する」ことなんですよ。

九分九厘、良書というのは成功者が書いているわけです。ということは少なくとも、それを読んでいる私やアナタの生き方よりは、正しいのです。ですから、自分の思いをすこし曲げてでも、「ココロから」納得してみるのです。

そこから、(やっと)始まるのです。

凡人、といいますかいわゆる「愚民」はそれができないのです。。
たとえば成功者の自伝や評論のほんの一部、ほんの1行に対して「これは違う!」とインネンをつけ、まるで鬼の首を取ったかのように自分のブログにあげつらって批判し、まるで自分が正しいかのように周りに吹聴し、結果、まんまと「やらない言い訳」をでっちあげているわけです。

愚民はだから愚民のまんまなんです。
愚民とはアタマが悪いということではないのです。ちょっとばかし「小賢しい」からこそ、プライドばかり高く、そういう行動に走ってしまうので手に負えないのです。

愚民とは「やらない言い訳」をでっちあげるのに自分の脳みそのフルパワーをつぎこんでしまうのです。もったいない。。でもまあ、それはほとんど 「ビョーキ」ですしね。。本人はそれで悦に入ってるわけですから、もう救いようがないともいえるのですが。

そういう人ほど世の中に対する文句が多いわけですが、なぜか世の中と比較して自分はゼッタイに正しいと思っています。自分もその「世の中」を構成 する一要素にすぎないのですが。。

やらない言い訳をでっち上げて何もしない人は、そもそも「正しくはない」のです。

アール・ナイチンゲール

生きている限り、安定などというものはないのだ。安定とは生前と死後にしかないのである。
この人生に安定を求めようとするのは、無理な話しなのだ。不安定こそ、人間の本来の姿である。むしろ、人間に自立性を与えるものなのである。人生に生きがいと課題を提供してくれるものなのだ。不安定こそ、人間を奮い立たせ、最高の成果をプレゼントしてくれるものなのである。

自立した後に利他的になる

自立した後に利他的になる

「自立した後に利他的になる」のが肝要なのです。

まず、自立が必要。

そして、自立した人間同士が連携すると初めて「協力関係」が生まれる。どちらかが自立してどちらかがしていないとカンゼンなる依存になってしまい、どちらも不幸になります。

自分だけでなく自分の属する「コミュニティ」(便宜的にこのコトバをつかいましょう)全体が豊かに幸福になってゆくためには、利他的が前提の協力関係が不可欠です。

誰かが、その「誰か」以外のほぼ全員が豊かになるようなことをしてくれる。自然に。

誰かの目標が、その「誰か」が属するコミュニティの共同の目標とリンクする。

だから、誰かが目標に向かって突き進めばそのコミュニティ全体が豊かになってゆく。

理想論を語っているわけではないのです。うまくまわってゆけばこうなるに違いないという確信から、こうやっていこうということを述べているのです。

これを押し付けるわけではなく、まず自分でやってみようと試みているわけです。

やらされることも必要

やらされることも必要

立志伝とか自叙伝とか、成功した方のハナシなどでいくつかの共通項がみられるのはよくあることです。

まず、多くの方々は不遇の時代を送っています。順風満帆でそのままきた、という方はほとんどいないでしょう。

そして、その「不遇」というのはおそらく、貧乏ということではないのです。「やりたくないことをやっていた(やらされていた)」のです。

それを「不遇」と呼ぶ。いや、呼ぶべきなのですね。

「しょうがなく、イヤイヤやっていた」というのが不遇の時代。たとえそれで、それなりに稼いでいたのだとしても。

逆に考えれば、成功のためには、なにかをイヤイヤやらされている時代が(ほぼ)必ず必要だということではないでしょうか。

そのやらされていることが実は成功のために役立っているという。。

ビジネスではこの「気付き」は必要なのでしょうね。遠回りしてしまっていると思っていても実はそれが最短距離であることが多い、という。

整理整頓

整理整頓

一生のうちのほとんどの時間が、周り(部屋とか、机の上とか)が整理整頓された状態を目にしているヒト(すぐ片付ける)と、一生のうちのほとんどの時間が、周りがちらかった状態で暮らしているヒトでは、そりゃ人生そのものが変わってきますよね。


常に、周囲がちらかった状態を目にして生きているヒトは、たとえそれが慣れていて何も感じないのだとしても、ものすごい不幸だと思いますね。

その「マヒしている」という状況がクセモノなのです。

常に「ゲージツ」を日常に飾っておいて常に目にすることにより、「ゲージツ的感性」とやらを養うべきだ、などとのたまってらっしゃるヒトがいますが、そんなことよりまず、常に「整頓された状態」を目にするようにしておくべきなのです。

私は、はっきりいって偏見をもっていますが、「ゲージツ」派のヒトほど周囲がちらかった状態(カオス)こそがゲージツそのものだ! などと言い訳しますね。

単に片付けられないだけなのに。。

片付かない部屋に「ゲージツ」を置くのは、実は紛らすのが目的という。。

ところで「ゲージツ」家の「アトリエ」って。。コキタナくとも許される、みたいなイメージがありますね。。

やらされることも必要

やらされることも必要

立志伝とか自叙伝とか、成功した方のハナシなどでいくつかの共通項がみられるのはよくあることです。

まず、多くの方々は不遇の時代を送っています。順風満帆でそのままきた、という方はほとんどいないでしょう。
そして、その「不遇」というのはおそらく、貧乏ということではないのです。「やりたくないことをやっていた(やらされていた)」のです。

それを「不遇」と呼ぶ。いや、呼ぶべきなのですね。

「しょうがなく、イヤイヤやっていた」というのが不遇の時代。たとえそれで、それなりに稼いでいたのだとしても。

逆に考えれば、成功のためには、なにかをイヤイヤやらされている時代が(ほぼ)必ず必要だということではないでしょうか。

そのやらされていることが実は成功のために役立っているという。。

ビジネスではこの「気付き」は必要なのでしょうね。遠回りしてしまっていると思っていても実はそれが最短距離であることが多い、という。

新・庶民論にかえる

新・庶民論にかえる

ムカシ、庶民は貧乏だけど一生懸命生きていました。ムカシは、庶民イコール「軽く貧乏」でした。

今、庶民は中流になり、世の中が便利に、豊かになったせいで一生懸命生きなくなりました。

一生懸命生きていない庶民は政治に対してムネを張って物申すことができません。

一生懸命生きずに、自分の生活を投げ出して「活動」にばかり精を出している市民活動家であっても、結局政治に対して物申すだけで満足しており、ゼンゼン響きません。

アピールだけで、それに見合う生活をしていない。

中流になった庶民は、一生懸命生きるのはもちろん、もっと「勉強」すべきだと思います。。

せっかく、進学率も上がってきているのだし。アタマもよくなったのにオトナになって勉強しないヒトが増えました。

いや、言い方が違いますね。。

進学率が上昇し、日本人はアタマよくなってるはずなのに、オトナになっても継続して勉強する率が以前、日本が「軽く貧乏」だった頃と変わらない。

これが、非常にもったいないのです。

せっかくアタマよくなったのに、テレビに溶かされてしまっているのです。勉強する時間も奪われてしまっているのです。

勤勉かつ質素に生きるのが庶民で、庶民は「自分たちのやるべきことはしっかりやってるぞ」と、政治や「上」に対して物申すことができる。

逆にいえば、政治や「上」に対して物申すことをやめていいのであれば、自堕落に「中流」をやってもかまわない。

ただし、日本が泥舟化していったとしても、それを見てみぬふりをして、一緒に沈んでゆく覚悟が必要なのです。自分たちを騙し続けた同じ日本人とともに沈むのです。

「常連」にはなるまい 大人になってからの「仲間」とは

「常連」にはなるまい 大人になってからの「仲間」とは

昨日は「集団」というものについて少し触れました。それに少し関連してくるのですが、

学生を卒業し、働き出してから、「たまり場」のような空間がほしいなあ、と常に思っています。

いついっても、誰かいる、といったような。

イメージとしては、喫茶店とかそういう空間よりは、碁会所のほうが近いかもしれません。

車に乗るようになると、こっそり違法駐車するのが平気になったり、犬を飼うようになると、道端に糞をさせてしまってもそのままにするのが平気になったり、そういう人たちにうんざりしているので、「常連」もその延長ですね。とある店が行き着けになり、「マスター」と顔なじみになったりすると、いきなり態度が大きくなり、他の客のことを考えない振る舞いをするようになる人を自分は相当数みてきました。

「常連」になる人はそれをしたいがために店に通うのでしょうし、店側はお金を落としてくれるので大切に扱わざるをえないし、利害が一致してしまうんですよね。

もともと飲食業界というのは一見に厳しいですし、それは未だに残っています。

話がそれていきそうなので戻すと。。

働き出してから、家が好きになってきたような気がするんですよね。でも、「たまり場が欲しい」という感情が常にあるということは、「家が好き」というのもムリにそう思い込んでいるだけなのかもしれない、と思います。

「たまり場」という言葉を使ってしまったので空間の重要性についてばかり考えてしまいましたが、たまり場が欲しいというのはつまり、「仲間が欲しい」ということでしょうね。

仲間。。 相当青臭い言葉ですね。

自分と価値観を共有できる人たち、ということでしょうか。

まず、「そんな人たちはいないだろう」と考えているような気がするので、その時点で傲慢な考え方のような気がしてきました。

中学・高校というのはおそらく、それが実現できていました。「仲間」がおり、価値観を共有でき、「たまり場」もありました。

中学・高校で実現できていたのに、今実現できないはずがない、という考え自体が間違っているのでしょうか。

先日、中学校が一番楽しかった、ということを書きました。その理由として不安がほとんどなかった、ということを挙げましたが、それをあわせて考えると、中学校時代というのは万能というか、ほとんどすべてのことを実現できていた、ということになります。

その状態に近づこうとしているわけですね。

中学校時代と今は、違いますけどね。。 そもそも中学校時代は親の庇護のもとに暮らしていましたからね。。

で、中学校時代に近づくためにまず何をすべきか、ということで、不安要素を減らすために「お金が必要」という結論に達したのでした。

しかし、「仲間」はお金では買えないわけです。これがポイントですね。

世の中のほとんどのことがお金で解決できる、と思った時点で、「仲間が欲しい」という希望は放棄しなければならないのでしょうか。

でも、「世の中のほとんどのことがお金で解決できる」集団がイコール、「仲間」ということでは? とも思います。

そういう思いを持つ人たちが果たして集団を形成するか? という疑問もありますが。。

それは、「世の中のほとんどのことがお金で解決できる」と考える人イコール「金の亡者」のような、人を信じないような人種という刷り込みがあるからでしょう。

「お金」について考えることが今流行っているので、善人もお金について考えています。

成金にならなくともよい、大金持ちにならなくともよい、と心から思っています。

自分のやりたいことに打ち込めるための余裕資金がほしい、ということです。

その「自分のやりたいこと」が多様化しているのです。

余裕資金を持つとどうしても陥ってしまうお決まりのコース、のようなものがあり、

たとえばベンツであったり、ブランドであったり、不動産であったり。。

そういう方向に向かわない、「ふつーの小金持ちさん」に期待したいです。

自分が価値観を共有できそうな人種の漠然としたイメージは、これでできました。。

これは自分にとっては相当重要なことです。

やはり書き出すのはいいですね。

今までは、仲間がほしい、たまり場が欲しい、といってみても、「じゃあどういう仲間がほしいのか?」というのがわからずにいましたが、何となくわかるようになってきました。

2歩ぐらい進んだので、いずれ、見つかるでしょう。。

仲間ができたら何をしたいか、と考えると、自分はとにかく、思う存分話をしたいのだと思います。気の合う人、価値観を共有できる人と。

ここで書き出してみて意見を整理するように、良き受け手とたくさん会話をすることにより、何か自分の考えの「方向性」のようなものを見つけてゆきたいんでしょうね。

その「良き受け手」が、自分の前からだんだん減ってゆき、今、皆無になっているのは、さびしい限りです。

「苦労を今しておくこと」について(3)

「苦労を今しておくこと」について(3)

昔の「自分について」で、中学校の頃はよかった、といったような書き出しをしていますが、記憶をたどると高1のときから、この思いでバイト を始めた ようです。もちろんその頃は「苦労をしなければ」という思いが具体的に言葉になって現れることはありませんでしたが、今思うと「苦労」と思え るのです。

そのバイトは全く無用で、する必要のないものでした。

不良が集まる喫茶店兼ゲームセンターみたいなところで、私のような弱気な人間では勤まるわけもなく。。全く場違いでした。なぜ自分がそこの バイトの面接に行ったのか、すらわかりませんし、おぼえていません。

土日のみでしたが、結局3ヶ月ぐらいで辞めてしまったのだと思います。バイトの本来の目的である「お金」も、ほとんど稼げませんでした。そ れどころか、最後の勤め分のいくらかは、バイト代を取りにいってないはずです。

が、自分の判断基準の中で、これを「苦労」と認定した時点で、無用な行動が、無用ではなくなるわけです。

ここには、親や他人の判断基準は入ってきません。他人には自分がバイトしているのは間違いなく無用な行為とうつっていましたが、自分が満足 すればそれでよいのです。

こうして自分の「偽」苦労人生が始まりました。。

不安をなくすためには

銀座八(活動) 不安をなくすためには

ある程度歳がいってからしみじみ思うのは、中学校の頃がいちばん楽しかった、 とい うことです。今と中学時代と何が違うか、といえば、将来に対する不安がなかったということです。中学の頃は、行く高校は完全に決まっており、 かつ、高校の 先については「無」でした。自分にとっての「将来」とは、見えているのは高校3年間までで、そこまでは約束されていました。

高校は、中学より楽しい出来事が多かったのは間違いないのですが、楽しくない出来事も多々あり、また、大学受験で精神的に苦しみ、将来の不 安 がいきなり眼前に押し寄せてきたので、中学時代と比較して「楽しかった」というイメージはありません。ただし、「充実していた」とはいえると 思います。

小学校は、いろいろなタイプの子が集まりすぎていました。集団というのは、選抜されて、ある程度自分と似たような人間が多い集団のほうが過 ごしやすいと思います。

楽しい生活を送るためには、楽しいことを増やすのではなく、不安要素を消してゆくのが大事だということです。

学生に限っていえば、不安要素を消すために大事になってくるのが、自分が属する「集団」です。それは、必ず居心地のよいものである必要があります。

「苦労を今しておくこと」について(2) 腕組みをして写真に収まる料

「苦労を今しておくこと」について(2) 腕組みをして写真に収まる料

大きなテーマとしては、なぜ自分が、「苦労は今しておかなければならない」という強迫観念にも似た思いを植え付けられたのか、というあたりです。

「誰に」植え付けられたかといえば、それは間違いなく自分でしょう。

そのトリガはといえば。。 「大器晩成」の話は前回書きましたが、いつごろ、このような思いに至ったのか。。

ところで、私は、どん底レベルの苦労はしていませんので。。

実家は中流でしたし、衣食住に困ったことはありません。

大学に出てきて一人暮らしをしていた頃、周りには同じように地方から出てきて、けっこう本気でお金がない人たちがいました。が、彼らは、たまたまそのときお金がなかっただけで、(あるいはストイックにそうしているだけで)実家が困窮していたわけではなかったと思います。

たとえば親の仕送りがない、といっても、それは自立心を植えつけるための親の愛情なのかもしれませんし、単に子供が親の意見と反対の行動をして東京に出てきて、親の逆鱗に触れて仕送りがないだけかもしれません。

私の、「大学進学のために地方から上京して一人暮らし」という「コース」は、親の望む方向とほぼ一致していたため、私はふつうに仕送りをもらっていました。(もちろん、潤沢ではありませんでしたが)

ということで、苦労をしていない「ぼんぼん」だったために、苦労をしなければならないという観念が植え付けられた、という結論に達しそうなのですが。。

何となく本質は違うような気はするんですよね。。

「そこまで思わなくともよいだろう」といいますか。。

私は本当に「ふつう」の逸材だったので、何かしらのトリガがなければ、「苦労をしなければならない」という考えにまでは至らなかったはずなのです。

そして、そう思っていた割には、親の仕送りを拒否することなくもらっていましたし。。

と、ここまで書いてきて、ひらめきました。

矢沢永吉さんは、著書かインタビューか忘れましたが、上京するときに、「夜汽車でなければならなかった」と言っています。仮にそのとき、財布の中に特急電車に乗れるお金があったとしても、シチュエーションとしては「夜汽車で上京」に「しなければならない」という考え方です。

まさにこれです。

自分の心の履歴書を、充実させよう、ということです。

my心の履歴書が、あたりさわりのない行動、流行に追随する行動、等により他人と似たり寄ったりのムダなページが増えることを嫌い、インパクトのある「履歴」を少しでも多くしたい、といいますか。。

ただし、矢沢永吉さんは、夜汽車で上京してその後の「ビッグになる」というストーリーもおぼろげながら見えていたはずですが、私は、未だにストーリーが見えていないような気がするのです。。

ホメれば伸びる日本人?

ホメれば伸びる日本人?

日本人は、以前よりずっとモラリストになっていると思います。

もうすぐ忘年会シーズンですが、12月の夜、街にばらまかれる「嘔吐物」は今よりムカシのほうがずっと多かった。

街は、ムカシのほうがずっとキタナかった。街の暴力沙汰は、ムカシのほうがずっと多かった。

川崎や錦糸町は今よりもずっとガラが悪かった。

日本人は、とてもよくなっているじゃないですか。ホメれば伸びるのではないですか?

こんなにも、いろいろな意味で「清潔」な世の中になってしまったのは、日本人自らが望んだからです。にも関わらず、この清潔さが耐えられない、窒息しそうになるとワガママをいうヒトたちがあとからあとから出てきます。

そんなに「不潔」な時代に戻りたいのだろうか? 僕はイヤです。

人生レース

人生レース

人生をレースにたとえれば。。

同世代は、最初はダンゴレースであっても、年齢とともに差がついてきます。50歳をすぎると、最大の差がつく時期になってきます。

今自分は、「身体がきいている」のもあって、先頭集団とまではいきませんが「ふつうに」走れています。

テレビカメラがくっついていく先頭集団に入るつもりがなく、自分のペースを守っているので、先頭集団に対しての嫉妬羨望の念が起こっていませんが、これから、なんだか疲れてしまってペースダウンしてしまうかもしれませんし、足に痛みが走ってリタイヤしてしまうかもしれません。

「自分のペースで走れなくなる」という状態になったときに、いろいろなことが崩れてしまって、先頭集団はもちろん、ふつうに走れているヒトたちにまで嫉妬羨望の感情を持ってしまうのです。

さて、それではどうするか。。 今スパートして先頭集団に入るか、あるいは「勇気ある撤退」をするか。。

「ふつうに」走れなくなったときにどうするか、最善の回避策を「走りながら」考えなければなりません。

大器晩成について(1)

6年前
大器晩成について(1)

-大器晩成型

「大器晩成」という言葉は、昔から気になっていました。「二面性」とならび、自分にとって重要なキーワードのひとつです。

前回、「ハジケられなかった自分」について書きましたが、その悶々とした時期には、「自分は『大器晩成型』だから、今ハジケられないのは仕方がない」と自分に対する言い訳に使っていたように思います。

ただ、相当早い時期から自分の心の中にこの言葉はありました。それは、不思議ではあります。

「早い時期」というのは、ハジケられなくて悶々としていた時期の前、自分の中ではけっこうノっていた時期からで、すでにその頃から「自分は『大器晩成型』である」と思い込んでいたフシがあります。

単なる諦観からくるものではないような気がするのですが。。

これが「予感」だったら嬉しいのですけど。

今は、この言葉は、自分を慰めるのではなく、自分にプレッシャーをかけるための言葉に代わっています。

「で、結局、『大器晩成』を実現したときのイメージは?」という自分の問いに対する答えを準備し、その実現可能性について具体的に探っています。

なぜならば。。 もう「晩成」の時期に入ってきているからです。(【重要】マーク)

何となく自分は大器晩成型であると思っているだけで、具体的な到達点のイメージを明確化してこなかったツケがまわってきています。時間は腐るほどあったはずなのに。。

大胆に物事を進めるには、もう遅すぎる年齢。。

「無茶」をしてこなかったこと、言い換えれば「半端な『ムチャ』」しかしてこなかったことに対する後悔は、確かにありますね。。

しかし、「大器晩成型」である自分は、若い時分には「半端な『ムチャ』」をするのが精一杯だったはずです。自分の器を考えれば。器の中ではMAXの「背伸び」をしていたのだと思います。(と、たまには自分を褒めてあげることにしましょう)

もともと「マジメ」なので、マジメ人間が「無茶」に走るのは非常にストレスがたまるのです。

マジメなくせに、世の中や物事をマジメに考えてしまうが故に、真面目なままでいられなくなるという矛盾。。 このことについて、若い頃から常に考え続けています。

捨てる

捨てる

人生を楽しむには、いろんなモノ、ことを捨ててゆくのも大事です。

僕らが考えなければならないのは、困難に対して「立ち向かう」か、「捨てる」かの選択。

あまりにも「捨てる」ばかりやっていると、自身に対してうしろめたくなってきて、楽しめません。

困難に立ち向かうことも大事。

だから、「困難」を取捨選択しよう!ということです。

無用な、自身にとって成長も何もない、ほとんど「いいがかり」「クレーム」的な困難は、うまい具合にスルーしなければならない。

スルーすれば、結局誰かが背負うことになります。でもそこで、「申し訳ない」という気持ちを起こすとすぐさま誰かにつけこまれます。

だから、その(自分がスルーした)困難が誰かにぶつかったら、その誰かの人間的成長になる、そして、「適材適所」で、その困難をラクラク解決してくれる器の人間がいる、と思えばよいのです。

おおよそ、自分が一生懸命生きていれば、自分にふりかかる困難というのは自分が立ち向かうべきものです。

自然に「困難」側も淘汰されてゆきます。前向きに生きている人間には、さらに前向きに進めるような、ドライブをかけるような困難がおあつらえむきに訪れます。

逆に、後ろ向きに生きている人間には、さらに後ろ向きにさせるような「なんでオレばかりが。。」と思ってしまうような困難がやってきます。

これはなぜそうなるのか? 僕にはそんな深遠なことはわかりません。

ですが、実際そうなのは確かです。

前向きに生きている人間は、外的要因、あるいは見えない力の作用により、無用な困難を「捨ててもらっている」。神なのか「サムシング・グレート」なのかはわかりませんが、それらの存在が、自分が直面する前に「困難」を取捨選択してくれているのです。

つまり、そういう存在は、前向きに生きている人間の成長を助けてくれる、いや、助けたくてしょうがないのでしょう。

後ろ向きに生きている人間には、前に、困難を取捨選択してくれる存在がつかない。だから、なんでもかんでも困難がやってくる。中には、自分にとって克服するにふさわしい困難もあるのでしょう。ですが玉石混交とはまさにこのことです。

ですから、後者に陥ってしまっているヒトは、どこかで自分に相当の負荷をかけて、自身の姿勢を前向きに持ってゆかなければなりません。

でもそれは強制ではないので。。次々に無用な困難(小さいのから大きいのから)がふりかかる人生に不満ばっかり述べて、実はそれでも結構満足しているようなマゾ的なヒトたちは、そのままでいてほしい。

彼らは、愚痴を言い続けている状態が快感なのですから。

僕が(こっそり)思っているのは、そういう(困難の)受け皿になってくれている、後ろ向きな方々がいてくれるおかげで、自分らがますます積極的に生きてゆけるということです。

つまり、少しだけ感謝しています。

困難というのは誰かが引き受けなければならないので。。


さて、ここまで書いてこの前提を覆すようですが。。

いかに積極的に前向きに生きていても、「事故」は避けられないのです。「サムシング・グレート」がよそ見をしていることもあるでしょう。そのすきに、100%理不尽な困難が自分に訪れることもあります。

その大小はまったく運なので、自分が死んでしまうこともあるでしょう。家族兄弟親類が殺されてしまうこともあるでしょう。北朝鮮が核兵器を日本に落とすこともあるのかもしれない。

まず、死んだら死んだで、仕方がない。できれば即死をのぞみます。

愛するヒトたちが死んでしまったら。。

まだ、そういう困難を経験したことがないのでわかりませんが。。

それを受け入れることにより自分が成長する、と、やや俯瞰めに考えるしかないのでしょうね。

それすらも含めて、自分が受け入れるべき困難だったに違いない、と。。

そこでぐちぐちと後ろ向きに、退行してしまわないように、日ごろの精神的鍛錬が必要なのでしょうね。

日ごろの鍛錬は、いざというときのため、と考えておくことにしましょう。

辰巳芳子さん

スープの基本は本来、素材の持っている自然の力をどのようにもらうか。それ以外にないですからね。素材と心を合わせて、素材に従って料理していく。だから、静かな心でやらないと。男性は力で材料をこなして思うようにしてしまうけれども、幸い私は体力がありません。自然のものに従っていったほうが、そのものの”らしさ”が出てくる、そのものが心を開いてくれるってことに、いつの間にか気づいたんでしょうね。人間関係と一緒よ。

「アヤしい宗教しきい値」を上げていこう。

たとえば、自然と神様に対して手をあわせるとか、先祖を敬うとか、道端のお地蔵さんにお参りするとか、そういうのはどう考えても「アヤしい宗教」 ではないでしょう。

そんなのよりも、十万とかボる自己啓発セミナーのほうがよっぽどアヤしい。
あれこそ宗教であると断言してよい。もっと注視したほうがいい。

幸福の科学や創価学会はいわずもがな。

やたらとカネを要求しない宗教はアヤしい宗教とみなさなくともよい。



そして。。マスコミを宗教と認定せよ! テレビとは布教です。

理想論にすぎないか?

人間ってとことん便利になろうとしますよね。それはなぜか?

ってまあ、ラクしたいからなのでしょうけども。

ではなぜラクしたいか? なのですが、
それは、必ずしも怠惰になりたいってわけじゃないと思っています。

その点、楽観的というか性善説というか。。

人間はラクになったら他人、周りを助けたくなると信じたい、というか。

あ。。でももともとは、兵器の技術が転用されてきただけですからねえ。。
とにかく人間、というか一部の民族は他国を侵略しようとするDNAを宿しているから。。

博識

博識ってなんとなく悪いイメージはないです。

ただ辞書に書いてあることを暗記しているような感じではないから。
個々の物事の意味は当然知っていて、さらにそれを有機的につなげている(済)ような人間というイメージ。

物事と物事の「有機的なつながり」というのは、検索しても「なかなか」出てこない。出てきずらい。「検索してもでてこないことを知っている」という意味で博識というのはすばらしい。


で、本題ですが、博識であるためには身体性は必須のような気がしてます。博識な人、というのは机上の空論をふりまわすだけじゃない。

さきほど書いた、物事と物事の有機的なつながりを探る、発見するために「身体」をつかっているに違いない、と。信頼しているわけです。

言い方をかえれば、家から出ないでネットに没頭しているような研究者にはゼッタイムリ。。


インテリには身体性が必須だ、っていうことに、気付いてない人間が多いのだろうか?
アタマいいんだからよく考えりゃわかりそうなもんですが。。

人生は(あっさり)リカバリ可能。

人間の人間たる、というかもっとも素晴らしいところは、何歳からでもリカバリ可能だということ。

「人間の」ってのはウソかも。。「現代人の」ということかな。

名門中学・高校・大学に入らなくとも後から復活できる。

もちろん、名門中学・高校・大学に入ってもいいんですよ。すぐ短絡的に、ただの嫉妬でそういうのを全否定するヒトが多いので。。念のため補 足しておきます。

育った家庭環境がすさんでいても、普通の環境に育ったにもかかわらずグレていたとしても、復活できる。
ただし、それなりの「禊」は必要ですが。。

不摂生で身体壊しても、改心しさえすれば復活できる。
この場合、禊は済んでいるのではないかと考えられますが。どっかが痛くなるとか病気になるとか。
ガンになっても復活する人がいる。


その代わり、これがけっこう高いハードルなのですが、復活する条件として「強い意志」というのが必要になるわけです。

人生の前半でどんだけマジメに過ごしたか? だけでは人生が決まるとは限らない。でも、有利になるのは事実です。(ここ、重要)

30歳ぐらいの時点では閻魔大王のジャッジ(オマエは地獄、オマエは天国)は確定ではない。まだまだ変動する。


リカバリのポイントになるのは、「目標設定しなおし」なんです。
それと、最終的に人生をクロージングするときに、幸福に終われるかどうかというのはほとんど自己満足度によるんです。ということを知ること。
ということは、自分を満足させる方向に舵をきる、ということ。

と書くと「意図的に」誤解するヒトが多いのですが、自己満足度を高めるっていうのはわがままに生きるってことではない。他人に奉仕するほど自己満足度 が高まるというのも一方で事実なわけですし。
ただし他人のために自分が犠牲になってはならない。そのへんの塩梅は難しいところです。でもオトナはそれを自分で考えて調整しなければならない。

目標設定を自分カスタマイズバージョンに変えてゆくこと。たとえば進学校へ入ったならば、目標設定は100%まわりが与えたもの。さっき書いた名 門高校・大学・社会人、みたいな。
まわりから与えてもらうのはある時点までは有効ですがどこかで「脱皮」しなければならない。

ということは、もっとパーソナルなものになってゆくということです。


さっき閻魔大王のこと書きましたが、ジャッジするのは自分でいいんです。大王に委ねるのは死後のみ。

どういうことかというと。。
自分は地獄にいくかも。。って考えているヒトがホント多いんですよ。そういう自分に酔ってるだけなんですけどね。
いつまでたっても反抗期? 社会人になってもサボって悦にいってるとか。。「オレって悪いやつ?」みたいな。煙草ふかして、ね。

そういうヒトって、カッコつけて自分は地獄行きだなこりゃ、とか思ってる。世の中にプチ反抗して。
だって、切迫感ないですから。死んだ後の話だから。死んだ後苦しくとも現世の物質的豊かさはガッツリいただいとくぜ、みたいな。

そんな状態ではダメで、オマエは天国にいく、と自己暗示かけときゃいいんです。そうすれば品行方正になってゆくし。
品行方正になる自分が許せない、ってのが現代人特有のハンパなツッパリなんです。小市民。愚民。
もっと突き抜けていきましょうよ。


真の「自由」っていうのは、そこにある。現代人には歳とってからリカバリする「自由」がある。ただしさっき書いたとおり強い意志は必要ですが。。

現代人は、自分を地獄行きと認定する自由もあるし、天国行きと認定する自由もある。自由なのに、なかなか後者を選ばない。後者を選んだほうがゼッ タイいいのに。現世時点でも。

麻生秀男さん コミュニケーション

(以下、すべて引用)
コミュニケーションを改善するだけでも、大きく人生が変わり、人生の幸福度が増します。

しかし、コミュニケーションにはもう一つの側面があります。
それは、
「自分とのコミュニケーション」
です。

あなたは、無意識のうちに膨大な量のコミュニケーションを自分自身としています。
頭の中で考えたり、自分が経験したことで何かを感じたり、考えたり。。これらの作業はすべて自分自身とのコミュニケーションです。
そして、その自分自身とのコミュニケーションの結果、無意識に自分自身の中にプログラムを作り上げていくのです。
たとえば、何かにチャレンジして失敗する、もしくは親とかに怒られる。そして、その時に悲しくなったり、つらかったりする。
そして、そうしたことが繰り返されると、だんだん自分に自信が無くなり、チャレンジすることさえやめてしまう。
簡単に言うと、こんな感じです。

そうしたプログラムを人間は子供のころから無意識に、無数に作り上げています。
中には、ポジティブな成功へ向かうプログラムを作り上げている人も居ますが、今、人生でうまく行かなくて悩んでいる人は、おそらく自分の中にネガ ティブなプログラムを作り上げているはずです。
自分とのコミュニケーションの意味を知らない、自分と周りの人によって、自分の望まない方向へ無意識に自分をプログラムしてしまっているのです。
ただ、自分の中に出来上がっているプログラムに自分で気づくのは非常に難しいですし、その前にコミュニケーションの本当の意味を知る必要がありま す。

ただ、このプログラムは書き換えることができるのです。
そして、それを書き換えたときに、自分の行動が変わり、人生が変わります。

今より幸せな時代なんてくるのかな?

こんな幸せな、恵まれた時代よりもっと幸せな時代なんてくるのでしょうか?

僕は、人類史上最高レベルの、幸せな時代を生きてるのではないのでしょうか。

中世のヒトたちは同じようなことを思ったのでしょうか?
コレ以上人類は繁栄するはずがない、とか。

「貴族」っていう人種がいますね。働かなくていい、みたいな。
そういう人種だけが、感じていたのかもしれない。「今より幸せな時代なぞくるのだろうか?」みたいな。

ルーティンを奴隷にやらせながら。。


今を生きる僕たちは、今がサイコー! と思いたい。ただそれだけなのかもしれない。
でも、絶妙の。。なんというか、「物質的豊かさ」「精神的豊かさ」アンド「健康」のトレードオフ、というか。。

あんまりキカイが進化すると、人間性というか肉体性が失われていきそうで。。
という意味で、未来にはあんまり期待できません。


現世をキラって自殺したとして、万が一生まれ変わったら戦時中だったらどうするのだろう?


でも実際問題、500年前の貴族よりも今のビンボー人のほうが、幸せ感はないのでしょうね。100年後、どんなに、総体的に幸せな時代がきたところで、100年後のビンボー人は不幸には違いない。

つまり、先立つものはお金なんですよ。
あれ? ヘンな結論になってしまった。

結局今を生きる人間は(というか、どの時代のヒトたちも今を生きてるのでしょうけども)、自信をもって、今が一番シアワセな時代であると、シアワセに 生きればいいんだろうと思います。もっとシンプルに。

それにしても。。以前どこかに書きましたが、昭和とくらべてこれほどまでに公衆トイレがキレイになるとは思いませんでしたし、これほどまでにタクシーの運転手のサービスが向上するとも思っていませんでした。すごくいい時代だと思います。

アンテナ

人間にはアンテナっぽいものがあるように思います。


どういう話かといいますと
強い(そして「正しい」)意志を持った人間はその方向性にひかれてゆく。
行動が。
そのためのアンテナ。

強い意志を持つとアンテナが立つ。そして、ビビビっと望む方向に引っ張られる。


もちろん、ここまでの話はイメージです。

でも、ということは。意志がそれほどなかったり弱かったりすると、
その行動に一貫性がなくなるということかもしれませんね。

指針がないのですから、生きてるほうも不安じゃないでしょうか。

何かに向かって突っ走ってる人間は強いですし、自信ありげですよね。


ところが、です。

仏教的な話になりますが「無為」というのはひとつの境地のように思います。

一見、無為と、「意志がない」というのは同じにみえるわけです。
でも、(おそらく)無為の境地というのは強い意志のその先にある。

具体的には、
・もうアンテナはいらない(自律的に動ける)
あるいは
・指針なくふらふらと動いても100%迷いが生じない

のいずれかなのでしょう。

原始的な欲求の実現

原始的な欲求の実現
お腹が空いたときに何か、大好きではないけどふつうにキライではなく、かつ栄養のあるものを即座に食べれるという幸せ。。

トイレもそうですよ。「もよおす」即トイレに行ける幸せ。これは、実はアタリマエのことではない、のではないか、と。


何かを欲したときに、No.1ではないけどNo.2~3ぐらいのことがかなう。それを繰り返していけば必然的に幸せになれますよ。

だから、まず、ちいさな欲求に対して、意識的に、実現させていけばいいのです。

そして、もっとも実現できやすい「根源的欲求」から始める。そして、小さな小さな幸せをつかんでゆく。

寒いときにはコートをはおって暖かくなればよい。ただし、そこで意識して「コートがあることの幸せ」を感じるクセをつける。

常にNo.1を求めるのは、ムリです。仮に常にNo.1が実現されたとしても、飽きるのでしょうし、それが「ぜいたく」なのです。「それ」というよりはそれを求めるプロセスそのものが。

お腹が空いたら何か食べる(腹7分目)を繰り返していたら、お腹が空いたときというのははっきりいって何でもいいわけですよね、明確にキライでなければ。

よけいな「あれがいい、これがいい」という欲求がなくなるわけです。

指定で、「○○(店名)のみそラーメンが食べたい!」とか、思うときもありますけどねえ。。

それを実現させてゆくのは、「ぜいたく」なのでしょうね。値段は関係なく。
メルマガ
カテゴリ
リンク
最新記事
twitter
プロフィール

tatsuzawatokyo

Author:tatsuzawatokyo
肩書き:代表戸締役 独りサク飯研究会員 所属政党:自由飲酒党 好きな唄:民生の「息子」 <<【東北人魂】仙台遷都、福島東北オリンピックの実現へ。>> 都心型仙人を目指してはいます

カレンダー
01 | 2013/02 | 03
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 - -
月別アーカイブ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示