右傾化のたとえ

右傾化のたとえ
若くして「覚悟」をもてることのすばらしさ。いつまでもいつまでも、30になっても、ぐだぐだと人生に対して覚悟ができないこの時代に。。

過去にはなぜ若者はあれほどまでに「覚悟」ができたのだろうか? と考えてみるムーブメントが起こるのはなんら不思議ではないと思います。


そういえば小林よしのりさんは「それにしても当時の若者の達筆さはどうだ」と書いていたのですが、それはさもありなんと思います。

若者が、きれいな字をしたためることができる、というのは、けっこう象徴的だと思われます。

というのは、僕自身、日本人がこれ以上日本語の字を書くのがキタナくなっていったらマズいんじゃないか、という思いがありますし、そう思っている のは僕だけじゃないと思います。

字は心をあらわす、あるいは字は「心の鏡」というのはあながち迷信ではありません。左傾化したヒトたちはおそらく迷信であると言い切れるのでしょ うし、とあるヒトが左傾化しているか右傾化しているかを推し量るよきリトマス試験紙になることでしょう。
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抱負(2008)

抱負(2008)
自分の健康のためにカネをかける

今年はカネ関係の抱負をたくさん書き出していますが。。

(今まで(対外的に)具体化することを怠ってきたので)

要は、他己実現ということです。近しい他人のためにカネを使うという のは。

そして、その次の優先順位は自分の健康。そのための投資はケチらな い。

それは、自分が「健康」と考えるものであればなんでもよいのです。

具体的な、病院で検査するでもよいし、ジムで身体を鍛えるでもよい。 ヘルシーな食事に傾倒する、でも。

自分が「心身ともに健康」であると実感できるための作業であれば。

なぜ自分の健康がその次の順位にくるか、というと、自分が健康でなけ れば他己実現も何もないわけですから。

特にここ数年は、自身の「精神的健康」は完全に犠牲にして仕事をせざ るを得なかったわけです。

そして、精神的不健康は身体を蝕んでいきます。それは自身で実証済な のです。

抱負としてはこれでいいけれど、も少し具体的に何をするか、考えなけ ればなりません。

パワーゲームにうかつに飛び込んでいかない

パワーゲームにうかつに飛び込んでいかない
政治はおそらく、パワーゲームなのでしょうね。

数で勝つ。ハードネゴシエータが勝つ。(自分の実力よりも)コネが強い人間が勝つ。

それはそれで、いいのです。

僕のような個人で動いている人間が、そういうパワーゲームの渦中に、うかつに飛び込むべきではない、ということ。

ある意味「瞬殺」されますから。。

ただし、自然と、そういう方向へ自分が誘導される(何ものかの力で)ということは、あると思います。

時期がきたら、自然とそうなる。

それまでに、「刀をといでおく」ということです。

ただただ、自分のやるべきことをしっかりやっておけば、それでいいのです。

実力を蓄える。

実力を蓄えた結果として、何か別な力が自分を「別なステージ」に連れていってくれるかもしれないので、それは拒むべきではない。

そしてその「別なステージ」というのは、パワーゲームの渦中かもしれません。それでも拒むべきではない。そこへ「何ものか」が連れていって く れるということは、もう自分の実力は、ついている。少なくとも瞬殺はされない。(「一回目」はボコボコにされてしまうかもしれませんが)

パワーゲームには、実力(つまり、パワー)を蓄えてから飛び込むべきで、それはアタリマエといえばアタリマエですね。。

「パワー」というのは「仲間」というのも含まれるかもしれませんね。個人で立ち向かうと「瞬殺」されるところも、集団だとなんとかなる、と いうことは多々ありますね。

ただの烏合の衆ではダメなのですが。。

もっと大きく考えましょうよ。(遺伝)

もっと大きく考えましょうよ。(遺伝)
もっと大きく考えましょうよ。

人間は環境および努力で自分の遺伝子情報を変えることができる。自分の「質」を高めることができる。

と、いうことは、子どもが生まれてから自分の遺伝子を変えたところで、実は意味がない。もう子どもは生まれてしまっているのだから。

けども! 親の教育により子どもを変えることは、できるのです。つまり、教育により自分の子ども(および子どもの世代)を進化させることで自分の 孫の世代を変えることができるのです。

そして、自分の子どもにも同じことを伝達しておくことで、自分の子どもの孫(自分の曾孫)世代を進化させることができる。これの繰り返しなんで す。

自分の子ども自身を立派に育てるなり才能を開花させるのは確かに大事なのだけれど、それより大事なのは自分の子どもに「次世代の育て方」を伝達す ることなのではないか、と。

自分の「質」を高める理由は、自分の子どもらに良き生活を伝えてゆくためなのです。

「ふつーの」人生

「ふつーの」人生
人生というのは、「ふつーに」、無理なく暮らしたところでそれほどオモシロいものでもありません。

白馬に乗って王子様がやってくるわけでも、1億円拾うわけでもありません。待っていても何も起こりません。

なぜ人生がデフォルトではオモシロくないかというと、理由はふたつあって、まず、そのまんまでは刺激的な「非日常」のイベントが発生しない ため。

もうひとつは、人の人生には「課」つまり、やりたくなくともやらねばならないことがたくさんあるからです。

その、やりたくないことを「やらない」という手段で拒否してゆくか、やりたくないことを工夫して時間を短くしていったり、あるいはちょっと だけ「あ、楽しいかも」という思いを入れ込むよう努力するか、で、人生の「豊かさ」がまったく変わってくるのです。

ところで、拒否したところで、別なカタチではねかえってきます。。

それはたとえば、そのやりたくないことが誰かがやることになり、それで恨みをかうとか、あるいは、そのやりたくないことをためこんだために ますますキツくなるとか。。

逃げ回っていても結局付け焼刃であって、意味はないのです。

やらなければならないことは、ただただ、やればいいのです。

その「ただやる」ということが、「宗教」につながってゆくわけです。

とりあえずここまでは到達しとかないと。。と、思っています。

逃げ回っていてはそこにはゼッタイ到達しないのです。


ムリをしない、という生き方がありますね。最近、そのような感じの生き方が肯定されてきつつありますが。。

でもそれだと、人生における「課」のボリュームに圧倒されてしまうという。。

各自のこなすべき「課」というのは、ほんの少しムリをしないとこなしきれないように、人生はできているような気がするのですね。


で、その「課」というのは、ムリをしない、という考え方を生きる指針にしている人間にとっては「苦行」に他ならない。

でも、そういうヒトにとっては苦行かもしれませんが、同じ数ぐらい同じ行為、作業を苦行とは考えないヒトたちもいます。

苦行と考えないヒトの中にも、ナチュラルに苦行と考えないヒトもいますし、努力により、苦行を苦行と思わないようにしてきたヒトも、いるの です。


こういう理屈を述べると、「ムリをしない生き方」肯定派のヒトたちに、「実際、ムリをしないで生きているヒトもいるじゃないか」といわれそ うですね。。

たしかに、いるのでしょうね。でもそれができるのは、結局「選ばれた」ヒトであって、そういう発言をしようとしている「アナタ」が「選ばれ た」ヒトでない確率は100%なのです。

それだけは、間違いないので安心してください。

そして、「選ばれたヒト」はまたそれはそれでタイヘンなのです。「アナタ」のようなヒトの嫉妬羨望攻撃をモロに受けたりだとか。。

良くも悪くも世の中がほっとかないわけでして。。

だから結果的には、人生トータルでは選ばれているが故にムリしているという。。
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肩書き:代表戸締役 独りサク飯研究会員 所属政党:自由飲酒党 好きな唄:民生の「息子」 <<【東北人魂】仙台遷都、福島東北オリンピックの実現へ。>> 都心型仙人を目指してはいます

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